ゲームのローカライズにまつわる話: 日本語訳について

翻訳ってのは難しい。
意味を伝えるだけで済むならまだしも、原文の意図する情感や雰囲気、読んだ際の音韻までをも正しく表現するのは、本当に骨が折れる。

そもそも、英語と日本語は、言語表現の方法が大きく異なるので、まじめに訳していては基本的にクソ訳になってしまう。

今日はこの辺の話題にしようかなと。

 
  (公式には出ていないが)War in the Northの和訳はまあまあよかった



■翻訳手法にはふた通りある
学術論文や技術資料なんかを読む仕事の人は「原文じゃないと話にならない」と思っているだろうし、実際、多くの場合はその通りだ。
ただ、標準的な日本人の場合、英語で長文を読むことは「可能」だが「だるい」という程度のスキルでしかないので、仕事でもなければそんなことはやってられない。

そこで「なるべくよい日本語訳」というものが注目される。
そもそも、「日本語へ訳す」という意味には、ふたつの手法がある。
それは原文になるべく忠実に翻訳する「逐語翻訳」と、原文の意味を捉えて再構成する「意味翻訳」だ。

・逐語翻訳
これは原文にある単語や文章構造をなるべく残す形で日本語に置き換える手法。
悪い言い方をすると、中学生が辞書片手にたどたどしく翻訳したというイメージだ。
しかし、原文に忠実な日本語になっているので、訳者の主観や演出によるノイズの混入は最小限になるというメリットがある。

(原文): Hi, My Name is Mike Davis.
  ↓
(翻訳): やあ、私の名前はマイクデービスです。

・意味翻訳
これは原文、すなわち著者がイメージしているものを訳者が解釈して日本語で表現し直すという手法。
日本語の読み物や会話文としては自然な表現になる反面、原文にはない意味が追加されたり、存在するはずの単語が消滅したりすることもある。
また、訳者自身の作家としての能力も重要。

(原文): Hi, My Name is Mike Davis.
  ↓
(翻訳): よお、俺はマイク。マイクデービスだ。

 ※この場合、原文が堅い為、不適切な翻訳になっている可能性もある。
 



■ゲームのローカライズにおける問題点
映画や小説などの読み物は、ほぼ例外なく意訳で翻訳されているが、訳者によって、原文にどの程度忠実にするかは異なる。
この為、同じ小説であっても訳者によって味わいが変わるし、極端な話、ファンタジーやSFにおける翻訳小説では、「訳者の名前で買う」という場合すらある。

また、これらの翻訳物の場合は、「誰の翻訳なのか」がキチンと表示されて販売されている。
これにより、訳者は自らの翻訳家としてのプライドをかけた形で日本語訳に取り組むことが出来る。名訳であれば称賛され、珍訳であれば貶(けな)されるわけだ。

ゲームにおけるローカライズにおける問題点の90%くらいはここにある。
現在流通するほぼ100%のゲームで、誰が訳したのか、すなわち日本語訳における責任は誰にあるのかがまったく明示されていないのだ。
自分の名前が出ないなら、仕事と割り切って、最も労力が掛からず、言い換えれば、最も安くできる手法で、必要水準を満たす成果物を出すのがプロとして正しい。

これはローカライズにおける残りの10%の問題にも大きく関係する。
その残りとは、実際に完成したゲームをプレイしながら翻訳していないという状況だ。
実際にプレイしていなければ、発言者がどんな人物なのか分かりづらいし、前後の話の流れがあれば、自然な翻訳に出来る場面でも、ぶつ切りにされていてはそれもおぼつかない。
最悪の場合、発言者の性別が逆転しているなんてことも起こる(実際にあった)。

翻訳者が責任とプライドを持って翻訳しているのなら、そんないい加減な状況で翻訳して「ハイ終わり」なんて事にはしない。
キチンと和訳出来るだけの資料を要求し、実際にゲームをプレイして翻訳する形になるだろう。
逆に考えると、納期的、ギャラ的、環境的な面でそれが出来ないから、「(適当にやるから)自分の名前は出さないでくれ」という形になっている事すら想像できる。

まとめると、誰が翻訳しているのか明確でない為、ゲームの翻訳は一線を越えられないのである。



■ユーザーの立場でできること
ローカライズにおける日本語訳をよくする」という活動は、非常に地味で、その多くは本当に効果があるのか分からない。というか、効果がないように思えるモノばかりだ。
この為、ものすごくマゾいし、作戦を続けても本当に改善される見込みが少ない。

それでも、実際にローカライズされたゲームをプレイして、
「和訳がどれほどよかったか」
「和訳がどれほどダメだったのか」を具体例を添えて、世間に公知していく活動を続けるしかない。

前にも書いたが、ゲームにおける不買運動ってのは、「買わないと遊べない」って点で非常に矛盾しているので、あまり芳しくない。
非常に嫌いで、恨みにすら思ってるようなメーカーでも、あり得ない程高い期待を掛けられた新作ゲームが出れば遊びたくなる。その上で「メーカーが嫌いだから」という理由で、そんな話題作をプレイしないのであれば、そのユーザーは病気だ。

日本語訳が悪いなら英語版で買えばいいじゃないかと思うだろうが、世の中のゲームは多少まずい日本語版であっても英語版よりはプレイしやすい。
現在は日本語版の値段が「相当高く」、発売日も「明らかに遅い」ので英語版でのプレイが主流になっているが、英語版と日本語版が同じ値段で同時発売だったときに、わざわざ英語版を選ぶなんてのは、現実的ではない。

だから、和訳版を遊ぶ機会あり、そのローカライズに振れたなら、
よかったのか、悪かったのかを他人にも見える形で、どんどん公表していくのがいい。
そうしておけば、メーカー側がゲームの付加価値をどこかに求めようとした際に、ローカライズ品質をウリに出来ることに気がつくかもしれないからだ。

いつかゲーム翻訳にも、映画字幕の戸田奈津子みたいに、「どんだけ極端な意訳しても、作風として許される」様な人が出てきて欲しいものである。

※ちなみに、ひとつのゲームの翻訳権を複数の会社が取得して、○○版翻訳みたいな形の売り方も(非現実的だが)おもしろいのではないかと思っている。現在、チラホラと見かける、ユーザーによる日本語化もこのバリエーションのひとつかも知れない。